左利きライフ研究家レフティやすおの左組通信ブログ

2016年に消失したホームページ『レフティやすおの左組通信』に代わるものとして、左利きライフについて、及び読書や本の話題、ベランダ園芸、その他あれこれについて書いてゆきます。

矯正

左利きの問題を知ろう/左利き私論―はじめに(2)

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ホームページ『レフティやすおの左組通信』から―
(初出)2003.12(最終)2004.4.8

 *2018年1月3日 一部加筆修正
 *2018年1月9日 「14年後の解説」(別ページ)
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【2 左利きの問題を知ろう 】

では、「右利き偏重社会」における「左利きの問題」とはどういうものでしょうか。


 ●(1)物理的バリア

一つは、手にする道具や機械、あるいは生活や作業をする家および施設における設備や構造の多くが右利き仕様であるという、道具のようなものや環境といった“物的”なハード面の問題です。

道具類は近年いくつもの企業が左利き用品を製造販売するようになり、個人で解決できるようになって来ました。
まだまだ品種、品質、デザイン、価格など不満な点はありますが、改良されてきています。

しかし基本的には、左右共用可能なものはでき得る限り、共用化を進め、それが不可能な使う手を限定する道具においては、右利き用と同一価格で一定の比率の数量(例えば全体の一割以上)の左利き用を製造販売しなくてはならない、といったルールを設けるなどの社会全体のバックアップが必要ではないでしょうか。

施設面では、左利きの人にも不都合にならない設計を考える(例えば、両方に投入口の付いた自動改札機。役所や銀行の窓口の受付で申し込み用紙に記入するためのペンを用意しているがこのペンに紐をつけない、あるいはつけるなら紐を長くして左利きの人が困らないようにする)。
それが難しい場合は、一方的にどちらかが不利になることのないように、右にまわったり左にまわったりするような設計にするなどの工夫が必要でしょう。


 ●(2)心理的バリア

もう一つは、左利きに対する右利きの人たちの「偏見」あるいは無理解が生む、心のバリア(barrier/障碍、障壁)の問題です。

左利きに対する「偏見」を持った人がまだまだいます。
左利きは脳にある障碍が原因で起こると考える人がいます。
脳神経学的に見れば決してまちがっているとは言いきれない学説ですが、一般に言われる意味は必ずしもそういう学問的な意味合いではないと考えられます。
単なる中傷でしかありません。

また自分と異なる仕草振舞いのみを取り上げて、その違和感から左利きを「気持ち悪い」と毛嫌いする人がいます。
個人の好悪にすぎません。

あるいは左利きの人の字の書き方を見て「おかしい」と言う人がいます、左利きには左利きの書き方があるということを理解していないのです。
ただの無知、無理解です。

右利きと左利きの違いとは何かを理解していない人が多いのです。
利き手が違うとはどういうことか、利き手が違えば生活する上で何がどう違ってくるのか、大部分の右利きの人は何も知りません。
想像したことさえない、というのが真実でしょう。

未知のものに対する恐怖というものは、人間なら誰もが持っている根源的な感情です。
そういう気持ちが左利きに対しても無意識に働いているのかもしれません。しかしそれでは原始人となんら変わりません。

左利きに対するもうひとつの偏見は、左利きはこの現実の社会においては不利だ、というものです。
「右手が使えないと損をする。
 他の子と違うと子供がかわいそう。
 だから本人が大きくなってから困らないために、右手を使えるようにしてやるのが、大人の義務だ」
――と考える人がいます。
いわゆる「矯正」(かつて半ば強制的に箸使いや字を書くことなどを右手使いにさせることをこう呼んだ)の問題です。
左利きを右利きに直してやろう、というわけです。

確かに不利なこと、不便なことが多いのは事実です。
しかし、左利きの人はその時の気分で左手を使っているのでもなければ、親や社会に反発して困らせてやろうと左手を使っているのでもありません。
それがその人にとっての自然な性質にも基づく行為であるにすぎないのです。

何も強情を張っているのでもなければ、肉体的に劣っているわけでもないのです。
右手の代わりに左手を使っているにすぎません。
それは北半球で台風が左巻きであるのに対して、南半球では右巻きになるのと同じ違いです。
本質は何一つ変わりません。

とはいえ、さすがに左利きは生まれつきのものであるという考えが浸透して、何が何でも右利きに変えようという、かつては「矯正」と呼ばれた行為はなくなってきました。
しかし依然として、字は右手で書くものだ、左手で箸を使うのは見てくれがよくない、といった理由を挙げてこれらの行為に関しては左手使いをやめさせるべきだと考える人たちがいます。

これらの行為も本来はなんら問題にはならないものです。
見栄えの良し悪し、美醜の感覚はものさしによって変わるものですし、右手使いの人が皆美しい字を書いている、箸使いがきれいとは限りません。
左手使いでも美しい所作の人がいます、きれいな読みやすい字を書く人がいます。

これらの問題も所詮は、右利きの人の優越感の表明にすぎません。

現代における成熟した社会は、多様な価値観を認め、自由と平等の下に築かれるものです。
左利きには左利きの権利があります(しかしそれは決して「right/右、正しい、権利」ではないはずです)。

左利きだから、という理由で差別されることがあってはならないのです。
左利きだから、と圧力をかけられることがあってはならないのです。
真の民主的な社会にあっては。大人であれ子供であれ。

左利きの人が疎外感を感じることのない世の中になってほしいものだと思います。
 



左利きの現状を見よう/左利き私論―はじめに(1)

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ホームページ『レフティやすおの左組通信』から―
(初出)2003.12(最終)2004.4.8

 *2018年1月4日 一部加筆修正
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左利きを考える―レフティやすおの左利き私論―はじめに(1)


はじめに左利きについての私の考えを記しておきましょう 
 
左利きを考える: 現状について
(未刊の拙著『レフティやすおの驚き桃の木左利き』より「序文」の前半を引用します。)


【1 左利きの現状を見よう 】

 ●左利きが一般化してきた

近年、左利きを取り巻く状況は非常に好転してきたといえます。
 
科学の進歩や経済の成長による社会の成熟とそれに伴う人権意識の向上などがあいまって、左利きを生来の素質として一つの個性と認識し、自然な行動としてあるがままに受け入れるようになって来ました。 

たとえば、日々流れるテレビ番組のドラマやバラエティにおいて登場する役者やタレントの人々の中に、左手でお箸を使う人、左手で字を書く人を幾人も見かけるようになりました。
それらの人たち自身も周りの人たちもそれら左手使いのことにまったく無頓着で、まったく気にかけている様子がないかのように見えます。
そこでは左利きも右利きもなんらこだわることなく自然に共存しています。

一般の社会でも、街のあちこちで同様の風景を目にします。
左手でお箸を使う人、左手で字を書く人などを見かけることが多くなりました。
かれらの多くは若い人たちです。
左利きは生来のもので、その人の個性としてあるがまま受け入れるべきだという考えに従い、いわゆる「矯正」(かつて半ば強制的に箸使いや字を書くことなどを右手使いにさせることをこう呼んだ)を受けることなく育ってきた世代でしょう。

「左利き」を表す言葉も変わって来ました。
その昔は「ぎっちょ」もしくは「左ぎっちょ」という言葉が多く使われてきました。
最近は、単に「左利き」あるいは英語から来た「サウスポー」もしくは「レフティー」と呼ばれるようになりました。
○○や×××のような言葉と同様、「ぎっちょ」に差別的なマイナスのイメージを嗅ぎつけた人々によって意識的に使われなくなったのでしょうか。
(「ぎっちょ」がマスコミで「差別用語」とされ、一般にもそれが認められて使われなくなったのかもしれません。)

また脳の研究が進み、ふたつの脳半球の担当する諸機能が徐々に明らかにされ、「右脳革命」と呼ばれるような一大ブームが起き、それ以後、右脳の支配を受ける左手を利き手として用いる左利きが右脳の優れた使い手として、右脳が得意とされる分野におけるエキスパートであるかのように理解され、一段と注目されるようになって来ました。

これは従来の左利きに対する偏見に満ちた悪感情を一般の人々から追放し、左利きに対する認識を一変させるものではありますが、また異なる次元の誤解を生むことにもなってゆくのではないかと、少し不安でもあります。

左利きと右脳の関係は、右利きの人におけるそれとは異なるのではないか、とも言われており、一般に考えられている右脳左脳の機能のあり方とはまた別のものである可能性が高いと考えられます。

確かに一般の人々の左利きに対する意識は変化してきました。
旧来の世代を中心に残存する左利きに対する偏見は、若い世代には受け継がれることなく、社会は左利きを「悪」から「普通」の存在に変えてきました。

しかし個人が左利きを受け入れても、歴史を継承する文化の総体である社会は、依然として無条件に左利きを受け入れるものではありません。

年配の人々の間に残された左利きに対する偏見は、文化という形の中でさまざまに姿を変えながら、抵抗を続けて生き残り、偏見を持たない世代にも影響を与えています。


 ●左利きを「普通」と見る考えによる弊害

一方、社会のシステム、ルールは個人の意識の変化に遅れて対応するものであり、また、最大公約数を対象として規定される性質のものであり、少数派をどう扱うかはその社会の成熟度に大いに左右されるところとなり、左利きもその例に漏れず、その対応はそれぞれの社会のあり方により異なっています。

左利きを「普通」とする考えは、個人のレベルでは非常に快いものではありますが、社会レベルでは、さまざまな「問題」を発生させると思われます。
現実の社会は、あくまでも多数派の都合に即したものであり、すなわち右利きの人たちのみを想定したものであり、依然左利きの存在はその枠組みから外れた存在でしかありません。

さまざまな少数派、社会的弱者と呼ばれる人たちに対する配慮がなされる時代になってきましたが、左利きに対する認識は「普通」の枠の中に留まり、忘れられているのではないでしょうか。

街を歩くと、歩道上に黄色いブロックが並んでいます。
直線部分では長い棒状の出っ張りが歩道の方向と平行に、曲がり角では点々状になったものが。
これは視覚障害者用につくられたもので、それを杖でたどっていけば歩く助けになるというものです。
あるいは駅の改札口には、通常の自動改札機とは別に、幅の広くなった車椅子でも通れるそれがあります。
これら身障者の人たちには社会が従来のものとは異なる対応を始めています。
より平等の社会を実現するべく、暖かい手を差し伸べています。

しかし、左利きの人のために、左右両方に切符の投入口を設けた自動改札機はありません。
複数の機械をならべるような大規模な駅では、そのうちのいくらかを左右両用のものに置き換えても良いのではないでしょうか。
常に右手があいているわけでもないでしょうし、そのほうが便利と考える右利きの人も決して少なくはないと思うのですが。


●「右利き偏重社会」の問題

左利きは障碍ではない、と考える人が多いのも事実です。
もちろんまちがってはいません。
その程度のことはガマンせよ、もっと重度の障碍に苦しんでいる人もいるのだ、という人もいるでしょう。
しかし多数派の右利きの健常者は、もっといい思いをしてきているのだという事実は変わりません。
サービスというものは、誰に対しても同様に行われるべきものではないでしょうか。
身障者のみならず、左利きという少数派にも。
左利きにも優しい、ということが身障者にも優しい社会となる要素もあると思います。
先程の例で言えば、左右両用の自動改札機は、右手が不自由な人にも便利なものになるはずです。

残念ながら左利きにとってこの社会は、右利き偏重社会であり、さまざまな不都合を感じています。
不便、不満、不快を感じています。
しかし、それらはほとんど右利きの人たちには知られることなく、左利きの人たちの胸の内に収められています。
それはひとえに左利きの人たちがその存在を自分ひとりの特殊なものと思い込み、かなりの数の人々にとっての共通の普遍的な問題であることを意識していない点にあると思われます。

実態としての左利きの問題は、「右利き偏重社会」における「左利き差別問題」と呼ぶべきものだということなのです。

今私は現在のこの社会を「右利き偏重社会」と呼びましたが、これについて考えて見ましょう。

この社会が左利きにとって不利な右利き偏重社会だという考え方はあくまでも私たち左利きの人の側の見方にすぎず、右利きの人たちにとっては便利かつこの上なく快適な社会そのものであり、改善の余地のない最高の環境である、のかもしれないのです。

ゆえに一部の人たちが多少の愚痴をこぼそうとも、見て見ぬふり、そ知らぬ顔の半兵衛を決め込むこともあながち責められない事でもあるかもしれないのです。

 しかし、たとえ一部といえども、現実に不利な生活を強いられている人がいるというのは揺るぐことなき事実です。この現状を理解してもらわねばなりません。 


2018.1.8

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*【左利きを考える―レフティやすおの左利き私論―はじめに】

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